ウイスキーの歴史

ブレンデッド・スコッチを 後押しした昆虫

人生にはままあることながら、重要な出来事や将来の見通しは、「正しい場所と正しい時」に 突然やって来る。ブドウの葉や根を好む小さな淡い黄色の昆虫が、1860年台にヨーロッパ全土に 広がり始めたのと、新生のブレンデッド・スコッチウイスキー業界がその恩恵を多く受けることに なったのもその一例だった。

ガーヴィン・D・スミスによる記事

ブレンデッド・ウイスキーは1860年のウイリアム・グラッドストーンのスピリッツ条例に発し、19世紀後半に急成長したビジネスだった。これにより麦芽とウイスキー穀類をブレンドすることが[保税倉庫留置を条件]に合法化されたが、これは1853年のフォーブス=マッケンジー条例に基づいたもので、[保税倉庫留置を条件]のもと、同じ蒸溜所からのモルトウイスキーを大樽で処理する、あるいは混ぜ合わせることを認めるものであった。

モルトウイスキーのバッチを内緒でブレンドすることは、法が制定されるまでは、より優れた調和を消費者のために見つけようと、商人や販売店舗が日常で行ってきたことだったが、これを最初に始めたのはエジンバラにあるワインとスピリッツ商人のアンドリュー・アッシャーであった。無論彼一人だけではなかった、ウイリアム・ロバートソン、ウイリアム・サンダーソン、W P ・ロウリー、チャールズ・マッキンレーらはみな、このブレンデッド・スコッチの初期起業家たちである。

モルトウイスキーのバッチを内緒でブレンドすることは、法が制定されるまでは、より優れた調和を消費者のために見つけようと、商人や販売店舗が日常で行ってきたことだったが、これを最初に始めたのはエジンバラにあるワインとスピリッツ商人のアンドリュー・アッシャーであった。無論彼一人だけではなかった、ウイリアム・ロバートソン、ウイリアム・サンダーソン、W P ・ロウリー、チャールズ・マッキンレーらはみな、このブレンデッド・スコッチの初期起業家たちである。

モルトウイスキーのバッチを内緒でブレンドすることは、法が制定されるまでは、より優れた調和を消費者のために見つけようと、商人や販売店舗が日常で行ってきたことだったが、これを最初に始めたのはエジンバラにあるワインとスピリッツ商人のアンドリュー・アッシャーであった。無論彼一人だけではなかった、ウイリアム・ロバートソン、ウイリアム・サンダーソン、W P ・ロウリー、チャールズ・マッキンレーらはみな、このブレンデッド・スコッチの初期起業家たちである。

同名の息子アンドリューとともにアッシャーはアッシャーズ・オールド・ヴァッテド・グレンリヴェット(OVG)を創始する。年の違うグレンリヴェットの原酒を樽に入れ処理することが1853年条例により数ヶ月のうちに実施に至るが、アンドリュー・アッシャー父は、1855年に他界する。最良の調和の模索はスピリッツ条例の結果であり、アンドリュー・アッシャー息子は、「ヴァッデド・モルト」から「本物のブレンデッド・ウイスキー」へとOVGを変えた。

ブレンデッド・スコッチはより飲みやすく、ポットスチル・ウイスキーの代わりとして安定している点で、イングランドでは何かと誤解を受けていた。イングランドではブレンデッド・スコッチを無骨で予測のつかない飲み物と考え、鹿追いの探検隊やハイランドの魚釣りの集まりに向いていて、紳士のクラブや[礼儀正しい]ソサイエティの客間には不向きとされていた。

確かにアンドリュー・アッシャーの息子であるサー・ロバートは、1860年までイングランドではウイスキー市場はほとんど存在しなかったと記述している。しかしその後、「スコテッシュウイスキーの取引は急速に増加し、思うにブレンデッドがより軽く、消化を補助するので、より一般の人の嗜好にマッチしたのでしょう。私個人の意見としては、ポットスティルが改良されて、パテントスチルと一緒にブレンドされたものは、より健康的な物として生産されたからでしょう。」

The small but deadly insect began to be referred to as Phylloxera vastratix (devastator of vines), and by 1889, total wine output in France was less than 28 per cent of that in 1875

惨害の訪れ ブレンデッド・スコッチがイングランドの[一般向けテイスト]の地位を獲得し始めた頃、ブドウのフィロキセラがアメリカで収集されたブドウの木の標本についてヨーロッパに上陸する。この昆虫の生息地はミシシッピー渓谷である。1850年代からヨーロッパのブドウ栽培農家を悩ましていたウドンコ病に、これらのブドウの木には抵抗力がある、と考えられていたためであったが、逆により大きな問題を引き起こした。 1863年にイギリスのブドウ畑が最初の被害を被り、フランス南部のローヌ渓谷の著名なブドウの木々たちも理由もわからないまま枯れた。そしてこの禍は続き、ヨーロッパ全域に広がって行った。小さいながら破滅的な昆虫は、ブドウの木を破壊するフィロキセラと呼ばれ始め、1889年フランスのワイン生産量は1875年との比較で、28%以下にまでに落ちた。

続いてフランス産ワインと比例するように、市場のブランデー量も落ち込み、イギリス紳士にはソーダ水しかお供がいなくなった。ここにブレンデッド・ウイスキー革命のヤング・タークスがトミー・デュワーー、ジェイムズ・ブキャナン(ブラック&ホワイト)、ピーター・マッキーら同士とともにバッカニアとして登場し、まずロンドンを奪取し、次に新しい市場開拓発見のために海外進出に向かった。 しかしながら記述された状況の全てが黒白ではないように、フランスのブランデー生産地、特にコニャックとシャラントの2大生産中心地に害があったのは1875年であった。また同じ頃ブレンデッド・スコッチは、既にイギリスと輸出市場に強い信奉者を獲得、一方でラム酒はブランデーと同様に、ブレンデッド・スコッチ[ブーム]の犠牲となっていた。

Tommy Dewar

Tommy Dewar, James Buchanan (of Black & White) and Peter Mackie (of White Horse) proceeded to take London by storm, before heading abroad to find new markets to conquer

A cartoon from Punch magazine in 1890 depicting the phylloxera insect

とは言え、ブランデーの供給量が劇的に減った事実で、手に入るものの価格は、多くの愛飲家たちの所持金では追いつかないほど上昇し、間違いなくブレンデッド・スコッチの起業家たちには都合よく、彼らの利益となった。 フィロキセラに後押しされたブレンデッド・スコッチウイスキー産業界の推移は、統計数によって一番うまく説明できる。1872年、350万ガロン(1600万リットル)のブランデーがイギリスに輸入されたが、1890年までにフィロキセラの影響で150万ガロン(680万リットル)に縮小する。

その間スコッチウイスキー生産量は1872年の7,801,935ガロン(20,246021リットル)から、1890年、20,090, 935ガロン (52,135,976リットル)へと大増量した。

フィロキセラの影響はアメリカの株木をヨーロッパのブドウの木に接ぎ木することで軽減されたが、これは初の法律で認められたのち、1878年と1879年にフランスで実施され、ワインとブランデーの売り上げもやがて回復し始めた。そして同時にブレンデッド・スコッチウイスキーは世界中で最も飲まれるアルコールとして、その揺るぎない地位を独自に獲得して行った。