ウイスキーの歴史:カクテル

ジェリー・トーマスと ブルーブレイザー

1988年に公開された映画 「カクテル」で、トム・クルーズがボトルやグラス、シェーカーを巧みに操る「フレア・バーテンディング」を行ったのは、実はカクテルバーのショーマンとしての長い伝統を引き継いだものでした。

この伝統の創始者の一人、ジェレマイヤー"ジェリー"・P・トーマスは、 1862年にニューヨークで出版されたアメリカ初のカクテルブック 『How to Mix Drinks, or The Bon Vivant's Companion(カクテルの作り方、またはボン・ヴィヴァンの手引)』の執筆者としても知られています。 執筆:GAVIN D SMITH(ギャビン・D・スミス)

ジェリー・トーマスは、バーテンダーの先駆者であり、冒険家、ビジネスマン、作家でもある極めて興味深い人物で、アメリカ史の中でも特にカラフルな時代にカラフルな人生を送った人物です。

1830年か1832年にニューヨーク州北部のサケッツ・ハーバーで生まれ、コネチカット州ニューヘイブンでバーテンダーのキャリアをスタートしました。

1848年にカリフォルニアで大規模な「ゴールドラッシュ」が始まった翌年にカリフォルニアに向かいました。

1851年に故郷の東海岸に戻るまで、彼はバーで働き、金を探したり、ミンストレル・ショーを運営したりしていたようです。

ニューヨークシティーでは、マンハッタンのブロードウェイ、パーク・ロー、アン・ストリートの角にあるバーナムアメリカ博物館と同じ敷地内に酒場を設立しましたが、すぐにまた旅に出て、セントルイス、シカゴ、サンフランシスコ、チャールストン、ニューオリンズのホテルやバーで働きました。 その間、きらびやかなバーテンダーとしての活動に磨きをかけ、ダイヤモンドの指輪やカフスボタン、キッドレザーの手袋などを身につけて、美術品を収集したり、ベアナックルボクシングを楽しんだりすることで知られていました。 ヨーロッパツアーに招かれた彼は、銀無垢のバー・ツール一式を持ってヨーロッパに到着しました。

ニューヨークの街並み。C.Autenriethのドローイングの後にJohn Borneがリトグラフを描いたもの。1850.

リキッド・ファイアー

トーマスのカクテルをシェイクする演劇的な手法の中心となったのは、彼の特製カクテル、ブルー・ブレイザーでした。

これはトーマスがサンフランシスコのギャンブルサロンで創作したカクテルです。ブルー・ブレイザーでは、カクテルジガーカップにウイスキーを入れて火をつけ、熱湯の入った2つ目のジガーカップに注ぎます。その後、2つのジガーカップの間で何度も素早く入れ替えてよく混ぜ合わさったところで砂糖とレモンを加えます。

トーマスは「ブルー・ブレイザー」を作るのに、カスクストレングスのスコッチウイスキーを好んで使っていました。

後ほど次のように書いています:「うまく行ったときは、液体の火(リキッド・ファイアー)が流れ続けているかのように見える。」 トーマスは、バーテンダーの技術を、尊敬に値するプロの地位にまで高めたという大きな功績を残したため、「プロフェッサー」というニックネームで呼ばれていました。

シカゴのオクシデンタル・ホテルでヘッドバーテンダーとして働いていたとき、週に100ドル稼いでいたと言われており、これはアメリカの副大統領よりも多い収入でした。

決して控えめな人間ではないトーマスは、自らを「バーのオリュンポスの神々の王、ユーピテル」と表現した。

The Eldorado, San Francisco, 現在は取り壊されています。

人類への恵み

1862年に出版された『How to Mix Drinks, or The Bon Vivant's Companion(カクテルの作り方、またはボン・ヴィヴァンの手引)』は、酒文化の後世に残る貢献をしたと言えますが、この本のタイトルは非常に包括的なものでした。

この本には、米国で使用されるすべての酒類をミックスするための明確かつ信頼性の高い作り方が記されています。

また、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、スペインで最も人気のあるレシピと共に、パンチ、ジュレップ、コブラー、そしてその他ありとあらゆる酒類を限りないレシピでミックスしています。 この本は、カクテルのレシピを集めて書き留め、本の形で出版した初めての試みで、それまで口伝でしか知られていなかったものや、トーマス自身が考案したものも含まれています。

この本は、彼の生存中に何度も更新され、新しい発見や発明が加えられました。

トーマスは『コンパニオン』の序文でこう書いています:「アメリカの社交の場でのお酒、いわゆるミックスドリンクとも言えるお酒のリストがあれば、まさに文学における陽気な珍品の一つになるだろうと思った。

また、他の国でよく飲まれている一連の混合酒と組み合わせて、それぞれを醸造するための様々なプロセスに関する簡潔な説明を加え、実際に役立つようにすれば、人類にとっての恵みとなるであろう。」 この本は現在も出版されており、その中にはトーマスによって初めて書き留められた「初の」カクテルとされるウイスキーサワーも含まれています: • (小型のバーグラスを使用すること) • ティースプーン大盛り1杯の粉白砂糖を少量のセルツァー(炭酸水)またはアポリナリス水(ドイツの発砲水)に溶かします。 • レモン小半分を絞った果汁 • バーボンまたはライウイスキー(ワイングラス)1杯 かき氷をグラスいっぱいに入れ、シェイクして、クラレットグラスに濾す。ベリー類で飾ること。

アメリカ史上最高のバーテンダー

再びニューヨークに戻ったトーマスは、メトロポリタンホテルのヘッドバーテンダーを務めた後、ブロードウェイと22番街に自分のバーを開きました。

このバーは、ハーバート・アズベリーが1927年12月にH・L・メンケンの『 アメリカン・マーキュリー』に寄稿した記事によると、「...この街の歴史上、最も有名なサロンのひとつとなった」といわれています。 7年間をそこで過ごした後、トーマスは不動産を売却してブロードウェイ1239番地に移り、そこでさらに8年間経営した後、1875年に最後の移転でダウンタウンに移り、バークレイ・ストリート3番地にThomas's Exchangeを開きました。 トーマスは1885年12月15日、ウォール街の投資で大金を失って、脳卒中で亡くなりました。

この頃の彼の名声は、全米の新聞に訃報が掲載されるほどで、 ニューヨーク・タイムズ紙には、「...かつては、ジェントルメンズクラブのメンバーや街の男たちに、この街のどのバーテンダーよりもよく知られており、あらゆる階級の人々に人気があった」と記されていました。

ニューヨーク州ブロンクスのウッドローン墓地に埋葬されました。 ハーバート・アズベリーは、ジェリー・トーマスを「アメリカ史上最高のバーテンダー」と評し、印象的な肖像画を描き、こう記しています:「堂々としていて、威厳のある男性であった。

恰幅が良くしゃれていて、陽気なのにとてつもない尊厳を備えていた。純白のジャケットに巨大な身を包み、セイウチ髭と呼ばれるスタイルできれいに整えられた巨大で端正な口ひげが唇を飾り、ふっくらとしたバラ色の頬を包み込むように横たわっていた。

磨かれた銀の食器やカットガラスのグラス輝きの中で、磨かれたマホガニー材のバーに身を乗り出し、「What will it be, gentlemen(何にしましょうか)? 」という古くからの挨拶を印象的に発する彼の姿は、見事な光景だった。」

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