GAME CHANGING: INNOVATORS

ウイスキー の 開拓者たち

蒸溜器で作られ、樽に詰められた、倉庫の奥に片づけられた価値のなさそうな液体が、数年後に貴重なものに生まれ変わったのです。そこには、時代を超えて進化し続けるスコッチの美があります。しかし、ヴィクトリア朝の人々が飲んでいたものは、今日のウイスキーとは程遠いものでした。トム・ブルース・ガーダイン(Tom Bruce-Gardyne)は、その過程にはさまざまな変革があったことに注目します。 

トディからブレンドへ

ニック・モーガン(Nick Morgan)は、ジョニー・ウォーカーについての著書『 A Long Stride』の執筆のための調査をしている間に、1880年代から90年代まではいいウイスキーを飲むというのは、立ち飲み酒場で飲むのとは対照的にトディを飲むことだと一般的に考えられていたことに気づいたと語っています。通常はウイスキー、お湯、砂糖で作られ、そして「運が良ければレモン」が入っていたと彼は言います。「しかし、ブレンドを中心としたトディ・ウイスキーは非常に重く、オイリーだった。」 スコッチが当時の中流階級の応接間で飲まれていたブランデーやソーダの代わりになるとするなら、それはより軽くなる必要がありました。「ブレンダーたちは、ブレンドを変えて、より軽やかでフレッシュでフルーティーなスタイルのウイスキーを実現しければならなかった。」とニックは言います。モルトの蒸溜所はそれに応じ、ブレンデッドスコッチは完璧なお酒へと進化していきました。それは1822年に連続蒸溜器を開発したイーニアス・コフィーを否定しているかのようですが、ブレンダーがすべての手柄を独り占めしていたわけではありません。ロイヤルマイル・ウイスキー(Royal Mile Whisky)のバイヤー代表のアーサー・モトリー(Arthur Motley)は次のように言っています。「コフィー・スチルの一貫性こそが真の変革を起こしていた。」

BELOW: Arthur Motley at Royal Mile Whiskies

Aeneas Coffey

Benromach and its iconic brick chimney

George Urquhart

モルト革命

ウイスキーライターのチャーリー・マクレイン(Charlie Maclean) は、ジョージ・ウルクハート(George Urquhart)は現代社会にモルトウイスキーに対する関心を引き起こした重要な人物だったと考えています。ゴードン&マクファイル(Gordon & MacPhail)社の故会長は誰が見ても謙虚な人だったので、そのような主張は却下されたでしょうし、グレンフィディック(Glenfiddich)社を筆頭に、他にも先駆者がいたのは事実です。しかし、1968年に発売された『コニサーズ・チョイス』でモルトウイスキーの多様性をアピールし、イタリアで世界初の本格的なシングルモルト市場を開くことに貢献したことは今でも評価されています。 「ジョージは、ウイスキーを誰よりも長く熟成させていたので、熱狂的すぎるエキセントリックな人物として見られていた」と、彼の孫であり、ゴードン&マクファイル社のプレステージ部門ディレクターであるスティーブン・ランキン(Stephen Rankin)は語ります。同社は1937年発売のマッカランを1972年には高級ブレンドの2倍ほどになる4.54ポンドで販売しており、高すぎる値段をつけるようなことはありませんでした。ゴードン&マクファイル社は、供給を維持するためにはウイスキーの製造を開始しなければならないことに気付き、1993年にベンロマック蒸溜所を買収しました。このことが、他の独立したボトラーや後の起業家への道を開き、彼らはブレンデッドスコッチ事業から離れて、モルトに特化した蒸溜所を買収したり、独自の蒸溜所を建設したりするようになりました。

BELOW: JG Thomson Limited in Leith, the future spiritual home of The Scotch Malt Whisky Society

ザ・スコッチモルトウイスキー・ソサエティは、1983年にリースに建設した『ザ・ヴォルツ』に本拠地を構え、カスクストレングスでボトリングしたスモールバッチウイスキーや冷却濾過のされていないウイスキーを提供することで、シングルカスクの楽しさをより多くの人に伝えてきました。当時のウイスキー業界ではこの風変わりなメンバーズクラブが成功する可能性はないと言われていましたが、ブレンドが主流の「昔も今も変わらない」世界の片隅でこのような急進的な動きが起きていたのです。

Dave Broom is looking forward to the next innovation

穀物の美しさ

それを見つける瞬間は、ジョン・グレイサーがディアジオで働いていた時にやってきました。「今でもあの日のことを鮮明に思い出すよ。」と彼は言います。「ジョニー・ウォーカー・ブラックラベルの主要な構成原酒を試飲していたのだが、ふとキャメロンブリッジのアメリカンオーク製ファーストフィル樽で熟成された12年グレーンウイスキーを飲んで、その素晴らしさにショックを受けたんだ。本当に美味しくて...とても親しみやすくて、「こんなに素晴らしいものをどうして瓶詰めしないのか?」と言ってしまったんだ。」 そして彼は、コンパス・ボックス社を創設し、2000年に『ヘドニズム』を発売したのです。10年のカンバスと20年のカレドニアン・グレーン・ウイスキーを均等にブレンドしたもので、価格は40ポンドと高級シングルモルトのような価格でした。グレイサーは最初の半年間で40箱しか販売しませんでしたが、非常に反響がよく、その事実が彼をコンパス・ボックスを一世代で最も期待の高いウイスキー新興企業の一つになるまで粘り強く努力させました。 「適切な樽で熟成させれば世界で最もおいしいウイスキーのひとつができる、ということを憶えておいてもらいたい。」と彼は言います。「問題は誰もグレーンウイスキーを 十分に熟成させていないことだ。生きている樽の中でおもしろいお酒になるまで...」 それが変わらない限り、この素晴らしいものは知る人ぞ知る秘密であり続けることでしょう。ヒントが必要な場合は、SMWSのボトルの表面に「G」の文字を探してみてください。

BELOW: John Glaser compares components

Compass Box’s sample room

One from the archive: David Stewart with a younger Balvenie cask

仕上げを学ぶ

1987年に発売された6種が構成する『クラシック・モルトシリーズ』は、ウイスキーの産地に対する意識を高めながら、シングル・モルトを主流に押し上げましたが、熟成の重要性を前面に押し出したのはカスクフィニッシュ(樽での仕上げ)でした。地域の特性や木材の種類などの両方のアプローチがウイスキーを飲む人々をシングルモルトへと導いていましたが、現在では樽について話題となることが多く、実績もそれを追っています。その多くは、1980年代から90年代にかけてウッドフィニッシュの先端を行っていた2つの創作物の『バルヴェニー』を造ったモルトマスターであるデビッド・スチュワートMBE(David Stewart MBE)と『グレンモーランジー』を生んだビル・ラムズデン博士(Dr Bill Lumsden)の二人によるものでした。 「ビル博士とデビッド・スチュワートの研究の影響で、人々の風味に関する見解は変わっていった。」とアーサー・モトリーは言います。「人々が樽が風味に大きな影響を与えることを理解し始めると、ウイスキーの評価の仕方も大きく変わる。」彼の見解では、「蒸留酒はこの地で生まれ、ほぼ完全にここの土からできている」と公言することが昔ながらのやり方でした。しかし、ウイスキーライターのデイヴ・ブルーム(Dave Broom)は「フィニッシュは1990年代には革新的なものだったが 今は違う。」と指摘します。おそらく、業界が新たなこだわりを見つける時が来たようです。

BELOW: David Stewart checks on progress at Balvenie

Dr Bill Lumsden

Highland rye in the making at Arbikie

カウボーイ精神の復活

米国で関心が急激に高まっているライ・ウイスキーほど、アメリカ的な蒸溜酒はほぼないと言えるでしょう。昨年の売り上げは140万ケースを超え、10年で10倍に増加しています。その人気の高さから、スコットランドの蒸溜所の数々では、そのお酒を「カウボーイ精神」の守りから解放して飲んでみたいという声があがりました。しかし、スコットランドでは、ファイフのインチディアニー蒸溜所のイアン・パルマーが語るような前例があります。1900年代初頭のスコッチの製造には確かにライ麦が使われていましたが、それが彼の新しいライロー(RyeLaw)ウイスキーによって復活したのです。 しかし、アンガスの海岸の上のアービキー蒸溜所にいたスターリング兄弟は、2018年の後半にすでにそれを実現していました。「『フィールド・トゥ・ボトル』を標語に掲げる蒸溜所として、100年以上ぶりにライ麦を栽培してウイスキーを造る機会を逃すわけにはいかなかった。」とアービキー蒸溜所創業者のイアン・スターリング(Iain Stirling)は言います。栽培は容易ではなく、収量が多いわけでもないので、大麦に負けてしまったのですが、アービキー・ハイランド・ライのことを考えると、復活させる価値はあると思います。

BELOW: Arbikie’s stillroom

Arbikie founder Iain Stirling