創設者の物語
会員番号1番の物語
[A1]ブレインウッズより:「In at No.1」をうまく訳せなかったのでこの形にしました。
SMWSの創立者であるピップ・ヒルズが、「寄せ集め軍団」とともにどのようにしてウイスキー愛好者の世界で革命を起こしたかを語る。
WORDS: RICHARD GOSLAN PHOTOS: MIKE WILKINSON
フィリップ“ピップ”ヒルズがスコットモルトウイスキーソサエティを創設してからもう40年近くになるが、彼をソサエティの創設へと駆り立てた情熱と熱意が衰える気配は一切ない。彼は書斎で、現在執筆中のスターリングエンジンの本について詳しく説明する。スターリングエンジンは、1816年にキルマーノックで24歳の牧師ロバート・スターリングによって発明された。ピップはまた、1920年代にノルウェーのキルケネスで活躍していた水先案内船の修復計画についても熱っぽく語る。さらに、イスラム教のイスマーイール派についての研究や、若い頃にスコットランドの伝説的な登山家ドゥガル・ハストンと新しい経路を通ってグレンコーを登ったことについてのストーリーにも、同じくらい熱心にのめり込んでいる。
しかし、私たちが本当に感謝を捧げるべきなのは、1970年代後半にピップの関心がシングルカスクとシングルモルトのウイスキーへと移り、それらのウイスキーがなぜもっと広く知られていないのかと疑問を抱いたことだ。 アバディーンシャイアに住む友人を訪ねたピップが、グレンファークラスのクォーターカスクから取ったウイスキーを発見した逸話はよく知られている。
今改めて振り返って特筆すべきは、当時この種のウイスキーを飲んだことがある人間がごく限られていたという事実だ。「私はグランジマウスで育った。父は港湾労働者で、当時のウイスキーと言えばヘイグしかなかった。つまり、ブレンドウイスキーだ」とピップは言う。
「子供の頃から、ウイスキーがスコットランドの代表的な飲み物であることは知っていたが、正直言ってあまり好きではなかった。1970年代、モルトウイスキーはスコットランド以外ではほぼ知られていなかったんだ。スコットランドでも、ごく少数の人しか知らなかった」
「グレンファークラスの農家が自分の樽から出した一杯を飲んで、私は開眼した。そのウイスキーをレモネードの瓶に入れて、友人の家に持って行ったよ。とにかく素晴らしいと思ったね」
素晴らしいと思ったのはピップだけではなかった。ピップはその後すぐエディンバラで仲間を募り、グレンファークラスのクォーターカスクを買い取った。
仲間で分配した後、ピップは広まる一方の友人たちの輪からだけでなく、知らない人からも電話を受け取るようになった。この素晴らしいウイスキーを自分にも分けてもらえないだろうか、と。
「その時から、自分自身に問いかけるようになった。『なぜ、これを誰も売ろうとしないんだ?』とね」とピップは言う。「私はウイスキー業界とは縁のない人間だったので、業界の人間を紹介してもらって会ってみると、誰もが『ああ、こんなもの売れないよ』という感じだった。まるで、以前にも売ろうとしたことがあったように」。だが、『売れない』と言っていた人たちはとんでもなく鈍い人間だった。想像力の欠片もなかった。
Tみんな会社から高い給料をもらって、ブレンドウイスキーを売るだけだった。モルトウイスキーが欲しい人間がいると聞いて驚いていたが、それくらい何も分かっていなかったということさ! もっとも、私の最大のモチベーションは楽しむことだった。シングルモルトウイスキーを売り込むことが楽しかったんだ」この楽しみが、スコッチモルトウイスキーソサエティという名の正式なクラブに成長した。1983年、リースにあるザ・ヴォルツを買い取ってソサエティが誕生した。「リースではかなりの時間を過ごしたものさ。ほとんどはパプやボートだったがね。昔はかなりみすぼらしい所だった」とピップは言う。
「だが、私は街の古い建物が好きだった。当時はワイン商のJG・トンプソンがヴォルツの所有者だった。私はこの場所がいいと思って、ある日、階段を上がって買い取りたいと申し出た。そうしたら、彼らはちょうどそこを出ていこうとしていたところで、私のオファーを受け入れてくれたんだ」
当時はワイン商のJG・トンプソンがヴォルツの所有者だった。私はこの場所がいいと思って、ある日、階段を上がって買い取りたいと申し出た。そうしたら、彼らはちょうどそこを出ていこうとしていたところで、私のオファーを受け入れてくれたんだ
ピップ・ヒルズ
ピップはソサエティの最初のテイスティング・パネルを組織した。彼が「寄せ集め集団」と呼ぶ仲間たちを集め、シングルカスクやシングルモルトの味わいを表現するための言語の探求に着手したのだ。それは、前代未聞の取り組みだった。
「ウイスキーを知っているだけではなく、学識のある人間を集めるのが一番いいと思っていた。だが、彼らは概して役立たずだったな。念入りに選んだつもりだったんだが」とピップは言う。「スコットランド屈指の詩人でソングライターのハーミッシュ・ヘンダーソンもその中の一人だった。とても聡明な人間のはずなんだが、私が『ハーミッシュ、このウイスキーをどう表現する?』と聞くと、彼は『うん』といってこう続けた。『素敵なウイスキーだね。とにかく素敵なウイスキーだ』。『素敵なウイスキー』だという以外、彼からは何も出てこなかった。というわけで、文学的才能に恵まれていたとしても、必ずしもウイスキーを的確に表現できるとは限らないんだ」
その後、ソサエティは国内外で好意的に取り上げられるようになった。もしかしたら、『ウォール・ストリート・ジャーナル』誌のワイン記者ポール・リービーとの蒸溜所ツアーの道中で車にはねられた野ウサギとキジのシチューを作ったピップのおかげかもしれない。『サンデー・タイムズ』のワイン記者ジャンシス・ロビンソンは、SMWSの発見に感激してこう綴った。「優しく熟成した金色の液体が詰まったカスクが、倉庫に積み上げられている。それぞれのカスクは、他とほのかに異なる味わいをたたえている」
ただ、彼女もピップも、なぜ蒸溜所がこの素晴らしいウイスキーをファンに提供するのをためらうのか不思議に思っていた。
「当時、“本当の”スコットランドを再発見する動きがあった。ある種の文化的革命だね。私たちもその一部だったんだ」とピップは言う。「再発見はとても楽しかった。おそろしく上品なお偉いさんたちの鼻先に、僕らの指を突きつけるようなものだったからね。古いやり方にしがみついて、たくさんのソーダで割ったブレンドウイスキーを飲んでいるようなやつらさ」
「私が発見したシングルカスクやシングルモルトほど素晴らしい物には、必ず需要があると確信していた。だが、当時私たちがSMWSでやっていたことにウイスキー業界が反応するまで10年かかったよ」
ピップは、ソサエティの創立はウイスキー業界における「とても小さな革命」だったと表現している。スコットランドでは文化的覚醒が広がり、人々は自信を深めていた。その中でピップが我々にもたらしたのが、最も純粋な形のウイスキーだった。そしてそれを、世界をリードするウイスキークラブで確立したのだ。その功績を祝福して、私たちはSMWS会員番号1番にグラスを捧げようではないか。
「私が発見したシングルカスクやシングルモルトほど素晴らしい物には、必ず需要があると確信していた。だが、当時私たちがSMWSでやっていたことにウイスキー業界が反応するまで10年かかったよ」
ピップ・ヒルズ
旅の仲間となった一台の車
ピップのクラシックカーも、ソサエティの物語の前半部分で中心的な役割を担った。
とっぴなウイスキークラブにはとっぴな車が似合う。そして、ピップがスペイサイドからエディンバラに最初のウイスキーのカスクを運ぶときにも乗っていた長さ17フィートのラゴンダほどとっぴな車も、そうはない。
1937年に製造されたLG45サルーンモデルには、当時としては珍しく、マンチェスターのガードナー製の4気筒ディーゼルエンジンが搭載されていた。その時代ではかなり革命的な車だった。
「私は1974年に買ったんだが、当時すでに製造から37年経っていた。だが、それから25年間、必要な修理に出していたほんの短い間以外は毎日乗っていたものだ」と、ピップは<創設者の物語>の中で書いている。「私はクラシックカー愛好者と呼ばれたことは一度もない。事実、この車以外、オールドカーに興味を持ったことはなかった。このラゴンダ4.5リットルピラーレスサルーンとの出会いも偶然だった。私は500ポンド払ってこの車を手に入れ、50万マイル乗ってから、買った値段の20倍で売った。私の人生の中でも一番いい取引の一つに数えられるだろう」
ピップの本を読めば分かるように、その車はソサエティの数多くの冒険で重要な役割を果たした。喜ばしいことに2019年、ピップと彼のラゴンダはソサエティの祝賀会で再会を果たした。車の現所有者がヴォルツを訪れたのだ。ピップは、ラゴンダのトランクにどうやってクォーターカスクを押し込めたか実演してみせた。そして、見事に修復されたこの車に乗って、リースの街を流した。ウイスキークラブの創設者とクラシックカーが、私たちの心の故郷で再会したのだ。