ウイスキーの歴史
ニール・ガン-スコットランドの声
作家ニール・ガンは「本物の」スコッチウイスキーに対する情熱を持っていた。その情熱は彼の作家としての道を包み込んだ、次第に廃れていく産業を遥かに上回っていた。ハイランドに深く根差したつながりをもち、黄金の蒸溜酒への洞察力という点ではほぼ間違いなく先見の明があったガンは、スコットランドの中のその場所へ何度も繰り返し引き戻されたのだった。ギャビン・D・スミスがお送りする。
ニール・ミラー・ガンは、スコットランドの20世紀最高の小説家の1人で、クリストファー・マレイ・グリーヴ(ヒュー・マックディアミッドの名の方が有名だ)や、ルイス・グラシック・ギボンの名で執筆活動を行っていたジェームズ・レスリー・ミッチェルと共に、いわゆるスコットランド・ルネッサンスの指導的立場にあった。スコットランド国家党(後のスコットランド国民党)初期の熱心なメンバーだったガンは、スコットランド北部の陸と海で働く人々の富について、そして彼らの伝統と文化とその緩やかな退廃に情熱を傾けていた。
彼はまた「本物の」スコッチウイスキーにも熱意を持っていた。そして本物のスコッチウイスキーは絶対に単式蒸留器から作り出されなければならないと考えていた。ウイスキー製造の神秘的雰囲気、スコットランドの歴史に果たす役割、伝説、そして日常生活は彼のペンにとって意義あるテーマとなっていった。
ガン自身はハイランド産で、ケイスネス沿岸の村、ダンビースで生まれた。父親はそこで小型漁船の船長をしていた。 賢い学生だったガンは、1911年に公務員となり、続けて収税吏となった。ハイランドの首都インバネスを拠点に、彼は「無所属の事務官」としてハイランドや島々を巡って仕事をした。この時期に、彼はウイスキー製造事業の実際的な知識を獲得したのだった。
上: ニール・ガン、ニール・ガン・トラスト提供
1921年、ガンは初めての「固定の」仕事を得た。それはハイランドからは遠い、ランカシャーの町、ウィガンだった。同じ年、彼は生涯の愛を捧げることになった、デイジーの名で知られるジェシー・フリューに出会い、2人は間もなく結婚した。 夫婦は1923年にスコットランドに戻り、最初はケイスネスのライブスターに、後にインバネスに居を構えた。
そこでガンはグレンモール蒸溜所の収税吏となり、その仕事を16年間続けた。1934年、彼は『Voices of Scotland(スコットランドの声)』>シリーズのウイスキーの巻の執筆を依頼された。編集担当は友人で仲間の小説家、『A Scots Quair(スコットランド人の物語)』 で名声を得たルイス・グラシック・ギボンで、ギボンが33歳で突然の死を迎える少し前のことだった。
翌年、本は予定通りに出版され、タイトルは『Whisky and Scotland: a practical and spiritual survey(ウイスキーとスコットランド:現実的でスピリチュアルな調査』 となった。副題は意味深だ。計198ページの本の中でウイスキーについて書かれたのは125ページ以降だけだったからだ。 巻の残りは主に、スコットランドの伝統と国家意識に関する、時に神秘的な調査に費やされた。
『Whisky and Scotland』 は、間もなくこの手の本の古典とみなされるようになった。そしてこれはウイスキーのライターが書いた本ではなく、作家が書いたウイスキーの本だった。こんな描写を読んでみてほしい。「周囲の畑に大麦の種が散らばる、黄昏の熟成庫に眠る5000のウイスキーカスクの静寂に耳を傾ければ、桂冠詩人さえも黙りこむかもしれない」
このテーマに対する自分の立場を明確にして、ガンは高らかに述べる。「素晴らしい単式蒸留器のウイスキーは、フランスのブルゴーニュワインやシャンパンの気品に匹敵するスコットランドの産品だ。連続式蒸溜器の蒸溜酒はもはや本物のウイスキーとは言えず、正反対の代物で、世界の果てから輸入した未加工の蒸溜酒でアルコール度数を挙げただけの安っぽい葡萄ジュースを本物のワインと呼ぶようなものだ。
“…ブレンダーがポットスチルの支配者となり、ポットスチルから生まれたものを彼が使う。生き残るためには、ポットスチルはできるだけ安く売らなければならず、したがって最小限の量の大麦から最大限の蒸溜酒を得る策略を巡らさなければならない」”
スコッチウイスキーに対するガンの悲観的な描写には、次の文章を見れば充分な根拠があった。「1921年にはスコットランドで稼働している蒸溜所が134か所あった。1933年には15か所だ(そのうち6か所は連続式蒸溜器)。 昨年、単式蒸留器の数が再び増加した。 しかしハイランドモルトウイスキーの将来、連続式蒸溜器による蒸溜酒のフレーバー用素材以外の使用については非常に不透明だ」
一方、作家としてのキャリアという点では、どんどん力がついていて、楽観的になれる兆しがあった。 1926年の『The Grey Coast(灰色の岸)』の出版で得た資金で、ガンはインバネスに家を建てた。続く小説群のおかげで、スコットランドの小説家の中で最も生き生きとして最も独創的な作家の1人として名声が固まった。1937年に発表された『Highland River(ハイランドリバー)』は、権威あるジェイムズ・テイト・ブラック記念賞を受賞し、ガンは思い切って収税吏の仕事を辞して、フルタイムの作家に転身した。
1941年には『The Silver Darlings(シルバーダーリング)』を出版、これは18世紀後半と19世紀初期の漁業ブームを描いたガンの叙事詩的小説だ。 この作品は、出版された全27冊の著書の中で最も有名で最も広く読まれた1冊となった。
その後、ガンは、ブレンダン・ブラッケン卿(米国に本社を置くシェンリー・インダストリーズの英国支社の「フィクサー」)と協力して、スペイサイドのトーモア蒸溜所設立にちょっとした役割を果たした。
1962年12月の「New Saltire(ニュー・ソールタイア)」誌の第6号「An Affair of Whisky(ウイスキーに関する出来事)」で、ガンはこう説明している「5年ほど前、私は故ブラッケン卿から手紙を受け取った(その時点で面識はなかった)。そこには彼の友人たちがハイランドに新しい蒸溜所を建設する計画を立てていて、私に相談に乗ってやってはくれないか、どうしても「最高の助言」が欲しいので、と書かれていた。
上: トーモア蒸留所
“そんなふうに礼儀正しくされたら、人生のほとんどの時間、ハイランドのためになることを考えていなかったとしても、警戒心を解かざるを得ない。そしてこのモルトウイスキーに関わる一大事について、今世紀にハイランドでは新しい単式蒸留器が一つも作られていないことが疑問に思われ始めた。現存する工場が上昇し続ける需要に見合わない不十分な量と伝統的スコッチとはいえない品質でいつまでも生産を続けるとしたら。それで、私にできる限りの助言を喜んでさせていただくと、ブラッケン卿を安心させたのだ」”
ガンは、続けて蒸溜所の建設場所を探す話の記述をして、最後にこう述べている。「私たちは遂に小さな川を見つけた。クロンデールヒルズからスペイ川へと流れていて、量も十分で味も素晴らしかった。水源は小さな湖で、ゲール語の名の意味は黄金の湖であり、さらに驚いたことに、川岸には1つも蒸溜所がなかった。その名はトーモアといい、マレーにある」
悲しいことに、ガンのソウルメイトのデイジーはこのエッセイが書かれた数か月後に亡くなった。そして打ちのめされた夫は、結果として執筆業から引退したのだった。 彼はその後10年生きて、81歳で亡くなり、ディングウォール墓地の妻の隣に埋葬された。
スコッチウイスキーの世界は景気という点で常に循環している。ニール・ガンが現在生きていたら、誇りを持ちシングルモルトスコッチウイスキーを作っている蒸溜所の数や、蒸溜所が地元の人々、時には過疎地においても雇用を創出し、本物の情熱を傾けて蒸溜酒を作っていることを知って、大いに喜ぶに違いない。