WHISKY HISTORY: TEMPERANCE
Scotland’s flirtation with prohibition スコットランドと禁酒運動の関係
先月号のアンフィルタードでは、米国の禁酒法時代におけるスコッチの世界の勝者と敗者に着目した。 当地ではアルコールが非合法になることはなかったが、禁酒運動には大きな影響を受けた―少なくとも特定の地域においては。
著者:ギャヴィン・D・スミス
「禁酒法時代」という言葉を聞くと、普通はシカゴの「スピークイージー(潜り酒場)」「ブートレガー(酒類密造者)」のイメージや密輸監視官が違法の酒樽を叩き割る報道写真を思い浮かべる。しかし、禁酒運動は単に米国の現象に留まるものではなく、しかも米国が1920年にボルステッド法を施行するずっと以前から広まっていた。 禁酒法施行の最古の記録は中国の夏王朝(紀元前2070年~1600年)で、統治者の禹王が王国内の酒を禁止したというものだ。それよりずっと最近のことになるが、ヨーロッパで最初に禁酒法を成立させたのは1915年のアイスランドで、1916年のノルウェーと1919年のフィンランドがそれに続いた。 一方、英国では19世紀に産業化が進み、都市部の人口増大により習慣飲酒の問題や飲酒が家族に及ぼす影響の問題が顕著になり、1835年には全国絶対禁酒協会 (BAPT)が発足された。その主唱者の1人がグラスゴー近郊のベアーズデン出身のスコットランド人、ジェームズ・スターリングだ。BAPTは蒸留酒の禁酒を推進したが、ビールやワインの消費には異議を唱えなかった。 英国初の禁酒団体が実際に発足したのは1829年10月5日のことだった。発足人はやはりスコットランド人で、地主のジョン・ダンロップとおばのリリアス・グラハムの2人、団体はグラスゴーおよび西スコットランド禁酒協会(Glasgow and West of Scotland Temperance Society)という名だった。最初の会合はグリーノックで催されたが、ダンロップは間もなくグラスゴーのメアリーヒルに目を向けるようになった。当時、メアリーヒルには23軒のパブがあり、これは住民57人に1軒という割合だったからだ。 BAPTと同じく、ダンロップは蒸留酒の禁酒に特に関心を寄せていて、ワインとビールは気分転換として容認できると考えていた。しかし次第により過激な、酒類すべての禁酒という考え方が勢いを増し、1900年までには英国の成人人口の10%が絶対禁酒家になっていたと推定されている。
SCOTLAND'S PROHIBITION スコットランドの禁酒運動
メアリーヒルにアルコールがたっぷり供給されていたとしても、ウィックの漁港ケイスネスに比べたら取るに足らないものだった。そのケイスネスはキルシス、カーキンティロック、ラーウィックと並び、独自の禁酒時代を経験している。 19世紀から20世紀にかけて世界有数のニシンの漁港だったウィックには、漁師やニシン漁船団を追いかける夏の季節労働者の一部にはびこる習慣的飲酒と暴力の問題がついてまわった。 1840年、チャールズ・トムソン司祭は次のように書いている。「ニシン漁は富をもたらしたが、同時に酔っ払いも増やした……蒸留酒の消費は膨大でウィックには22軒、プルトニータウンには23軒のパブがある……サタンと堕天使ベリアルの神学校だ」実際、毎週800ガロンを超えるウィスキー、瓶にして5000本以上が消費されたと考えられている。

ウィックのハーバーフロントに干してある帆。Copyright the Wick Society Johnston Collection
イリシット・スティル Copyright the Wick Society Johnston Collection
多くの地元民が禁酒運動を支援するようになったのも驚くには当たらない。ケイスネスの歴史家である故イアン・サザーランドは『ボート・ノー・ライセンス(Vote No Licence>)』の中で「1922年5月28日から1947年5月28日までの四半世紀にわたり、ウィックでは一般向けに酒類を販売できるパブや酒類販売許可を得た小売店は一軒としてなかった。それらは1913年の(スコットランド)禁酒法のもとに1920年12月10日に催された選挙の結果を受けて閉店したのだ」と述べている。 闇酒場―ニューヨークやシカゴの「スピークイージー」のウィック版―が登場し、それに伴い、少なくとも2軒の蒸留所が稼働していた。サザーランドによれば「1つはヒル・オブ・ニュートンにあり、ウィラグ・トムソンが、おじといとこと共に経営していて、自社製造のウィスキーのために自分たちで麦まで育てていた。
「客は醸造や熟成の点で品質がかなりバラついていることに文句は言わなかった。熟成は日数や週数の単位で測られていた」ということだ。”
1947年、ウィックで禁酒法時代が撤廃される頃には、スコットランド周辺のニシン産業は消滅したも同然だった。その結果、過度の飲酒によって引き起こされる問題はスコットランドの他の地域ほど悪くもなくなっていたのだった。 1930年に閉鎖されたウィックのプルトニー蒸留所は、禁酒法が廃止された4年後に再開し、ウィラグ・トムソンの一族が密造したものよりずっと安定して熟成した蒸留酒を提供している。
プルトニー港 1863年 copyright the Wick Society Johnston Collection