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時代の流れに抗う

ウイスキーの世界に興味を持ってまだ日が浅い人は、この業界が年々成長し、熱烈なウイスキー愛好家たちがかつてないほど多くのウイスキーを楽しんでいることを知ることになるだろう。しかし、ソサイエティが40周年を迎えるにあたり、スコッチウイスキー業界にとっての冬の時代であり、世界中に暗い雰囲気が漂っていた1983年に思いを馳せてみるのもいいかもしれない。 ギャビン・D・スミスが、ソサイエティが時代に抗う決意をした40年前の、厳しい状況について語ってくれた。

東西の緊張が高まり、アメリカの核兵器が英国国内に配備されるなど、冷戦は明らかに膠着状態にあった。 また、英国は本土と北アイルランドにおいて、IRA(アイルランド共和軍)による継続的なテロ活動にさらされていた。

2月には、ダービー優勝馬であるシャーガーがアイルランド共和軍に誘拐され、300万ポンドの身代金を要求されたが、身代金は支払われず、シャーガ―も戻らなかったというニュースが大々的に報じられた。

その年の後半には、バークシャー州のグリーナム・コモン空軍基地への巡航ミサイルの到着が報道された際に、核軍縮キャンペーン(CND)の支持者が抗議する様子が映し出され、注目を浴びた。

医療に関してはエイズの流行が始まり、世界中で死者を出し、1983年5月には『ニューヨークタイムズ』が初めて1面にエイズに関する記事を掲載した。 スコッチウイスキーに関しては、約一世紀前と同じように供給が需要を上回っていた。1973年の中東戦争は、原油価格の高騰と、スコッチの世界最大の市場であるアメリカ経済の縮小を招くきっかけとなった。嗜好の変化もあり、ホワイトスピリッツやワインの人気が高まっていた。

その結果、多くの蒸溜所が生産量を大幅に減らし、1983年にはハイランド・ディスティラリーズ社がアイラ島のブナハーブン蒸溜所を一時閉鎖し、他の蒸溜所も稼働時間を短縮した。

しかし、より深刻な影響を受けたのは巨大企業のディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)で、その危機的状況に対応するため、1983年5月31日にバンフ、ブローラ、ダラス・デュー、グレンアルビン、グレンモール、グレンロッキー、ノック・デュー、ノース・ポート、セント・マグダレンのモルト蒸溜所と、カースブリッジのグレーン蒸溜所の閉鎖を発表した。スコッチウイスキー業界の縮小ぶりは、1978年のモルトスピリッツの生産量が3億6,570万リットルだったのに対し、1983年には1億6,320万リットルにまで減少したという事実が如実に物語っている。

しかし業界はさらなる縮小を余儀なくされる。2年後の1985年3月31日、DCLは先の蒸溜所の合理化計画に続き、ロイヤル・ブラックラ、コールバーン、コンバルモア、グレネスク、グレントファース、グレンユーリーロイヤル、インペリアル、マノックモア、ミルバーン、ティーニニックの10軒のモルト蒸溜所を閉鎖し、グレンダランとリンクウッドの古い施設も閉鎖された。

1984年4月5日に発売された『オフ・ライセンス・ニュース』ではDCLが抱えていた問題の背景について、次のように述べている。「1971年、DCLは市場全体で800万ケースの販売量のうち50%のシェアを占めていた。 1981年までに市場は66%成長し、全体の販売量が1,330万ケースになったのに対し、DCLのシェアは300万ケース足らずと、実質3分の2にまで落ち込んだ。ある証券会社によると、1983年のDCLの販売量は、市場全体で1,250万ケース中240万ケースとさらに落ち込み、シェアが初めて20%以下になったという。

別の言い方をすれば、DCLが英国で販売したスコッチの量は、そのすべてのブランドを合わせても、ベル社の単一ブランドの販売量よりも少なかったということだ」

1982年にスコットランドで稼働するモルト蒸溜所は113軒であったが、1983年には101軒にまで減少し、1986年には81軒と過去最低にまで落ち込んだ。

1980年代前半は間違いなくブレンドが巷で圧倒的な人気を誇っていたが、シングルモルトが蔑ろにされていたわけではなく、グレンフィディック、グレンリベット、グレングラント、マッカラン・グレンリベット(当時の名称)、ダルモア、ラフロイグなどが英国で販売されていた。 注目すべきは、ソサエティ設立にあたり、グレンファークラスがカスクストレングスの1つである、現在のグレンファークラス105を1968年に発売していたことだ。

ブレンデッド・スコッチの代表格であったDCLでさえもその流れに乗り、1982年にクラシックモルツの前身である「アスコット・セラー」シリーズを発売した。同シリーズは、ローズバンクの8年物、リンクウッドの12年物、タリスカーの8年物、ラガヴーリンの12年物、グレンリーブンとストラスコノンの「ヴァッテッド・モルト」が混在したケースで構成されていた。

シングルモルトの販売については、老舗のケイデンヘッドとゴードン&マクファイルが、独自にボトリングをしたものを販売し、後者は1968年にコニサーズ・チョイスを発売した。一方、ロンドンのソーホーでは、ジャック・ミルロイとウォーレス・ミルロイが4年前からワインと蒸溜酒の販売を始め、徐々にウイスキー販売に力を入れるようになっていた。

グレンファークラスが1968年にカスクストレングスのボトリングという革新的な選択をしたことを考えると、ピップ・ヒルズが後のソサエティのために入手したものは最初のカスクとしてふさわしかったといえるだろう。このカスクは同じく家族経営のスペイサイド蒸溜所で調達し、1975年に蒸溜されたグレンファークラスの8年物で、後にカスクNo.1.1と名付けられたものだ。